鼠の目#415(ほぼ全文はリンクで)

鼠の目・これまでの梗概

原爆

人は科学と技術が自らの容量を超えたことを、論理的に知ったのではないと思っている。

これから先のことは、オレが想像に想像を重ねた個人的見解であることをまず、断っておく。

人間が科学と技術に乗り越えられたことに対し、人は不安を感じた。

西洋キリスト教的合理主義がいきついた先には、キリストさえ人が制御下に置こうとする状態が出来した。

神は死んだのではなく、神さえも化学は統御できる、という姿勢だ。

試験管の中で胚胎する人の生命。

それを針でつつき、刺激を与えてもてあそぶこと。

子宮内にある胎児のDNAを分析し、選択的に生命を生殺与奪する。

これらはすべて事故でもなければ、事件でもない。

あくまでもっとも倫理に厳しかるべき医学の意思として行われるのだ。

絶対に間違っている、とオレは確信している。

宇宙を統べる意思、すなわちそれが神とすれば、神のみの専決事項を人間が弄んでいるとしか思えない。

まだ、ある。

老病苦死は人間が避けえぬもののはずだ。

とりわけ老いることと、死ぬことはいかな人間とて避けえない。

仙老や不老不死、賢者の石を古来より人間は求めた。

しかし、笑い話として語られたことが、いまやスケジュールに登りそうな勢いだ。

老いぬこと、死なぬこと、そのことが商売としてなりたち、莫大な金を支払える者のみが、それを享受する。

生命が金と交換可能なのだ。

死ぬことは悲劇であろう。

また老いることもつらい。

しかし、それが不易の事実であり、その生命の循環によってのみ生命が輝く、その金甌無欠の事実が曲げられようとしている。

なあに、金で命と若さを買えばいいのだ、と。

狂っている、とオレは思う。

いってみれば、これらすべて西洋的合理主義が生み出した反省なき科学万能主義の破綻ではないか、とオレは睨んでいる。

でなければ、ヒロシマ・ナガサキに落とされた原爆に対し、反省があるはずだ。

ところが実際は…いうまでもなかろう。